社長の横顔(代表取締役入山吉幸)

【兄弟三人を入社させる父の想い】  

私は、(有)入山建設の創業者である入山軍吉の三人兄弟の長男として昭和30年に聖籠町で生まれました。高校は、新発田の商工高校建築科に進み、昭和50年の卒業後すぐに、家業であった個人経営の入山建築に入りました。  

その後、昭和51年に次男が入社、昭和61年には、土木建設会社に修業に行っていた三男も入社し、現在、兄弟三人が力を合わせて(有)入山建設を運営しています。   

私の入社の頃は大工工事が大半でしたが、父は私の入社の頃から土木工事に力を入れ、三男を知り合いの土木工事会社に修業にやるなど、本格的に土木工事会社になるつもりだった様です。  

  昭和63年に㈲入山建設が設立され、その頃から建築工事よりも土木工事がメインの会社になってきました。三男も入社し仕事も順調だった事もあり、当時の父はたいへん満足していたと思われます。 

土木の仕事に建築大工の強い思いが入る

土木工事がメインの会社なのですが、父が大工職人で、私と弟も大工上がりなので、土木工事作業の許容範囲がプラスマイナス2cm~3cmあるのですが当社の場合は、いつもプラスマイナス0を目標に作業をしていました。大工は直線が基本で、少しでも狂っていると面白くない性分みたいです。たとえば側溝を並べるのに高さが合わないと何度でもやり直す。少々がみ違いがあり3mm位なのでOKにしようとすると、父は、もう一度とやり直しを命じました。そんな作業を行っているのでなかなかはかどらなかった事を覚えています。 

兄弟3人の力を期待する父

父の口癖は、「良いものを早く作って、お客様に納める事だ。」です。確かにこの事は、今でも入山建設の根底に有るようです。そんな中、父は「兄弟3人で力を合わせた仕事をすればどんな仕事でも出来る」とよく言っていました。  

15年くらい前の話ですが、土木工事現場が2カ所同時に重なっており1カ所は、入山建設の直営班の現場で、もう一方は作業員を他社から借りて三男が監督をしている現場がありました。その三男の現場で川を締め切った掘削作業を行っていたのですが、仮設の土留が良くなく雨が降り続き土留を超して水があふれ、現場が水浸しになってしまいました。  

その時は「しょうがない」と翌日朝からもう一度やり直しをする事になったのですが、夕方雨が止み、翌日の段取りを3人で話をしていて「これからポンプを設置して一晩水替えをすれば明日の作業がはかどる、それじゃあこれから現場へ行ってくるか」と夜の7時頃3人で出かけ、9時頃には作業が終わりました。  

そのおかげで翌日の作業は支障なく順調に進みました。こんな時、兄弟3人話がまとまるのも早いし行動も出来る。こんな兄弟がいて本当に良かったと思いました。実際、以前は趣味も同じで、夏はウインドサーフィン・冬はスキーに、弟や友人達と大勢で遊んだものです。現在、兄弟3人で入山建設を継続している事を、父には本当に感謝しております。

弟達へのわだかまりを持つ私

(有)入山建設になった頃、私は対外的には取締役専務の肩書きを持っていましたが、弟達とは仕事場の同僚であり、同じように自ら現場作業に従事しておりました。弟達と仕事をするようになってからですが、仕事上父と意見が合わなくなる事が増えてきた頃の事です。ある時、事業拡大の為、大型重機の必要を感じて弟達と話し合い、私が父に進言したのですが聞き入れられず、数日後、次男が話をするとすぐに了解を取り付けてきたのです。大小にかかわらずそういうことが、何度かありました。  

この事が、私の中で一つのわだかまりとなっていましたが、兄弟三人で会社を続けていく事の方が、私にとって重要だったのです。しかし、この様な事が続く中で、何も私が全部を仕切る必要が無いのではと、考える様になったのだと思います。そして弟達と意見が合わないなど、そんな時は、必ず私の方から折れる、その様な事が当たり前のようになってしまった。  

結果、誰からもよく見られたい、会社の面倒な事は弟達に頼む、争うような時は先に折れる、しかし自尊心だけはあり、なかなか自分から頭を下げてものを頼まず、自分が大変でも他人が私をよく思ってくれるなら、仕事を後に回しても行動してしまう自分になっていきました。

 

社長の継承、突然の父の死

今に思えば、そんな事をしていたら、会社経営がおろそかになるのも当たり前ですが、その時は、仕事をこなしていれば何とかなると自分に言い聞かせていました。そんな気持ちのまま、数年がたち平成13年の8月に父より代表取締役を譲り受けました。その翌年の平成14年の1月突然に父が亡くなりました。

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